父が教えてくれた「命の尊厳」

  1. Family

延命治療はしたくない、というのは、母が存命だった時から、家族で共有していたことでした。

102歳で亡くなった母方の祖母は胃ろうでした。
ほとんど意識がなく、意思の疎通もできず、という状態が何年も続きました。
そんな中でも、毎月、母は札幌から旭川まで祖母に会いに通っていました。

その経験から、父も母も無用な延命治療はして欲しくない、痛みや苦痛だけ取り除いて欲しい、と元気な頃から話していました。

母の腎臓癌と大腸癌が発覚した時、81歳という年齢から医師も積極的治療を勧めませんでしたし、父も私もそれを望みませんでした。

母の自慢だった、一度も染めたことのなかったシルバーヘア。
抗がん剤治療で髪が抜けてしまうのは可哀想だ、と父が言ったのを覚えています。

自宅での訪問看護とヘルパーさんに助けられた緩和ケアで、母は9カ月過ごしました。
その間、体調の波はありましたが、8月には車で旭川に行き、母が気がかりにしていたお墓まいりも済ませました。

アトリエ・モリヒコでの母。
初めてのキャラメル・ラテに
「こんな美味しいもの飲んだことないわ」

ずっと自宅で過ごし、2017年1月に容体が急変して一晩だけ入院。

そのまま眠っているうちに逝きました。

母は軽度の認知症でした。

家族を忘れてしまうようなことはなく、普段の生活にも支障はありませんでしたが、認知症のおかげで、母は自分の病状についてはあまりわかっていないようでした。

癌の告知を家族3人で聞いたときも本人は、それを命に関わることとは捉えていませんでした。

父は、そんな母を最後までひとりで看とりました。

私は2週間に一度、東京から札幌に帰省していましたが、実質的な介護はほとんどしていません。

私は、毎月、母を美容院に連れて行きました。

お茶を飲みに、おしゃれなカフェに連れ出しました。

車椅子とタクシーを使って。

次第に少女のようになっていく母を、私はとても愛しく思いました。

母を送って四ヶ月後、父は呼吸器内科に入院。

以前からの間質性肺炎はかなり進行していました。
その時から、自宅でも酸素療法をすることになり、父は24時間、酸素を供給する管をつける生活になりました。

外出するときには、酸素ボンベを引き、父はそれを「お供」と呼んでいました。

20年来の糖尿病では、毎日、インシュリン注射。

お小水も20年前からストーマでの対応。

そして酸素療法。

器具の手配、器具の取り替え、毎日の注射や投薬を、父は誰の手も借りずに、淡々とこなしていました。

父は今日まで、判断力が衰えることはありませんでした。

たまに意識が朦朧とすることはあっても、常に周囲に対して的確な判断をしていました。

医療保健や介護保険の手続き、お金の管理も、自分でしていましたし、転院先も私の下見した中から自分で決めました。

入院してほとんど動けなくなっても、それは変わりませんでした。

ですから、自身の病状についても、冷静にわかっていたと思います。

日常生活で下の世話まで介護師の手を借りるようになっても、父は素直にそれを受け入れていました。

人としての尊厳を損なうことなく。

昨日、自分の体の状態が「だいぶ悪くなってきた」と感じた父は、看護師に伝言して私を呼び寄せました。

「来てくれてよかった。安心した。ありがとう」と繰り返し言いました。

痰が絡み、息遣いがゼーゼーと荒くなっていくなかで、父は痰の吸引を拒みました。

「もう終わりにして欲しい」

命の尊厳。

父の意思を尊重したい、と弟も私も思います。しかし、実際に命のソフトランディングは、厳しい決断の連続です。

もう話せなくなってしまうかもしれない。

もう意識が戻らないかもしれない。


弟と私は、それでも、父の意思を全うしようとしています。

それが、私たちが最後にできる、ただ1つのことだから。

家族で長い時間、共有してきたことでなかったら、この決断はとても難しいことだったと思います。

母と父は、対照的な人生の終わりを迎えようとしています。

それは親が子供に示すことのできる、最後の教育なのかもしれません。

父は身をもって、「命の尊厳」ということを伝えてくれました。

父の娘でよかった。

パパ、ありがとう。

何度も父に言った言葉を、今も私は病床で父に語りかけています。

毅然とした70代の時の父。
札幌大通り公園のライラックの花の下で。