10月26日は至誠の命日でした。
あの日から2年。もうずいぶん長い時間が経ってしまったような気も、昨日のことのようにも思います。
ここ1ヵ月、私は日記をつけることが出来ませんでした。5年日記なので、ページを開くたびに、10月26日までの記述が目に入ってくるから。
肺炎で入院した時、その後、人工呼吸器を経ての苦しい思いをさせることがわかっていたら、そしてそれが最後だとわかっていたら、救急車なんて呼ばなかった。。。
最善を尽くしたといくら自分に言い聞かせてみても、あの時、もしこうしていたらという思いを拭うことはできませんでした。何が正しい選択だったのかという事は決してわからないのでしょう。それでもやっぱり、、、と思ってしまう。この2年間、その繰り返しでした。
私が19歳、至誠が26歳で出会ってから43年。
その長い間、マジックという共通の経験もあり、友人たちも重なっていて、2人には強い結びつきがありました。それでも違った時間を過ごすことも多く、決してお互いが最優先でなかったこともありました。私自身、生活の中心は常に仕事でしたし、至誠もまた、マジシャンとして第一線で仕事をし続ける緊張感は並大抵のものではなかったと思います。
けれど、長い年月を経て、白血病という病になって入院してからの2年間は、ただまっすぐにお互いに向き合った時間でした。コロナだったこともあり、社会との接触もほとんどなく、ただただ2人の時間だけがそこに流れていました。直接会うことができなくても、一緒に住んでいた時以上に、FaceTimeを通して話をし、共に食事をし、長い時間を一緒に過ごしました。
2021年5月にDVHDの後遺症で再度入院し、歩行さえおぼつかなくなって、やっと退院してきてからの3ヶ月。68歳だった至誠が一気に80代の老人のようになり、その現実を受け入れる間もなく、日々の営みに向き合っていた日々でした。
でもそれは決して不幸な時間ではありませんでした。
ほとんど寝たきりになってからのその自宅療養の最後の3ヶ月は、さらに2人を近づけ、結びつけました。そして私たちは分かちがたくなりました。
10月26日の朝、まだ暗いうちから、至誠のお姉さん2人と私は、病院の待合室で待っていました。コロナ禍だったため、そんな最後の段階になっても、病室に入ることができませんでした。
病室に入れるのは最後の時だとわかっていました。それでも私は早く至誠に会いたくてたまらなかった。会うというその瞬間だけを待っていました。FaceTimeで病室とつながり、たくさんたくさん至誠に話しかけながら、夕方までただ待っていました。
死別という言葉は、私たちには当てはまりませんでした。至誠は私と一つになって、今も一緒にいます。
荼毘に付して、1週間で東川の家に来た時、1度でいいから生前の至誠をここに連れて来たかったと思いました。でも、今はわかります。至誠はこの家を私が1人で生きていくための場所として用意してくれたのだと。
至誠が逝った2021年の冬、私の心は凍り付いて何も感じませんでした。たくさんの人が来てくれて、いたわってくれて、東川の家で何とか過ごしていたけれど。
今も、日常の暮らしの中で心の扉を閉めているけれど、こうして思い出すだけで止めどなく涙が溢れてきます。
2年経っても、悲しみを乗り越えることなんてできない。できるのは、ただ少しずつその悲しみに慣れていくことだけなのです。
それでも私は生きていきます。精一杯の笑顔で。だって、私にはあの艶やかで美しい至誠の声が聞こえるから。
「泣かないでくれよ。結花が泣くと僕も悲しいから」。