かけがえのない家族ーー母の命日に

  1. Family

1月24日は、母の命日でした。


冷たい雨の降る東京で、私はひとり、朝からキャンドルをつけ、1日中その灯を切らさずに静かに過ごしました。

キャンドルの灯りが目に入るたびに、
母のことを思った。


2017年1月24日の朝、弟と始発のエアで札幌に向かったときのことを、昨日のように思い出します。抜けるような雲1つない朝で、ちょうど飛行機に乗ろうとした時、羽田の海に真っ赤な朝日が昇りました。


前日の夜、父からの電話で母の容体が急変し入院したことを知り、取り乱した私は弟に電話をして、とにかく一緒に札幌に行ってと告げたのでした。


弟が札幌に帰るのは20年ぶりだったと思います。決して両親と仲が悪いわけではありませんでしたが、小さい時から孤独癖があり、独立独歩だった弟は、転勤で東京に出てからはほとんど両親とのやりとりが途絶えていました。

いくら手紙を出しても電話をかけても連絡が来ない、と母は言い、それでも便りがないのは元気な証拠、とあくまで弟のことを信用していた両親でした。


その弟が、とおの昔に仕事を辞め、環境適応障害で引きこもって暮らしていることを知ったのは、2012年のこと。それ以来、私は月に一度、弟に付き添って病院に行くようにしていましたが、どう話しても、帰省することは頑としてありませんでした。


おそらく、弟は両親に顔向けができないと思っていたのでしょう。浪人もせず、国立大学にすんなり入って、電子工学を専攻し、奨学金をとって大学院へ。何一つ親に心配をかけたことがない弟でした。


両親が2012年に東京に来た時、つかの間4人で会ってはいましたが、両親に会うのはそれ以来でした。病院で静かに横たわる母に向きあった時、弟は何を思ったのでしょうか。


母の晩年には会うことがなかった弟でしたが、父の晩年には私と共に寄り添い、優しく世話をしてくれました。3日間、病院に泊まり込み、父の最期を2人で見送ることができたのは、天の計らいだったと思います。


パンデミックという状況にあって、家族に会えない、触れ合うこともできないという方がたくさんいらっしゃいます。
今ほど、家族の重み、ということを感じたことはなかったと思うのです。


特に強い信仰を持っていなかった両親に倣い、私たちも特別なことは何もしませんが、父や母の命日には、弟と2人で食事をし語り合うのがいつものことでした。しかし、今年はそれも諦めました。私にとっても弟にとっても、そのほうが良いと思ったからです。


北海道という土地柄もあって、父も母も、形式や習慣にはとらわれない人たちでした。私たちなりの悼む形も、両親はごく普通に受け入れてくれると思っています。


今朝も両親の写真のそばに花を飾り、手を合わせて2人に語りかけました。これを祈りと言うならば、私は日々祈っています。

両親の写真には、日々手を合わせる。


家族は、何にもましてかけがえのないものです。当たり前にあるときには、けむたかったり、重荷だったりすることもありますが、それもまた家族という深いつながりの一面だと思います。


母はいつも明るくよく笑い、おしゃべりで、ひまわりのような人でした。苦しむことなく、長く入院することもなく、私たちを忘れることもなく、あっという間に逝ってしまいました。


ただ、忘れられない笑顔だけを残して。

2003年、イギリスのシシングハースト・ガーデンにて。
ホワイトガーデンが満開だった7月の初め。

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