仕事をしていると、半年後、一年後の予定を当たり前のように入れています。その日が来ることは間違いのない事実と仮定して。
けれど、もちろん、確実な予定などありません。それを実行するために精一杯の努力はするけれど、突如として叶わないこともありうるーーコロナを経て、実感した方も多いと思います。
私も、以前は当然のように予定を信じていました。
でも、母の認知症、父の憔悴、家人の病を経て、確実にやってくる未来などないのだと知りました。
不確かな時間の中で、信じられるのは人の思い、人の言葉でした。
若い頃は、他の方の不幸な事態にどう対応していいかわからず、思いはあっても言葉や態度にできないことも多かったように思います。
ありきたりな言葉や、型通りのしきたりを疎ましく思ったことも。だからといって、自分の言葉も持たず、どうしていいかわからなくて、辛い立場の方からそっと距離を置いてしまったことも少なくありませんでした。
父のこと、母のこと、家人のことを通して、当たり前すぎると思っていた言葉が、慈愛に満ちて聞こえるようになりました。
今は、他の方に寄り添って言葉をかけることもできるようになりました。
ありきたりな言葉やしきたりには意味があるのだということも、わかるようになりました。
過去に寄り添えなかった方たちには本当に申し訳ないと思います。でも、だからこそ、これからは、、、。
言葉でしか伝えられないことも、言葉では伝えられないこともあります。けれど、やっぱり、言葉と行為は、唯一の思いを伝える手段だと思うのです。
今、多くの方から家人と私に頂く「祈っています」という言葉。それがとても有り難く、力強い。
私たちはこの短い言葉に、間違いなく支えられています。
最初の入院の時、数ヶ月の間、家人も私も病気のことを公表しませんでした。こうしたプライベートな、しかもネガティブなことを発信するのに躊躇がありました。
けれど、今年の結婚記念日、3月12日に家人の病気を公に。私たち自身、オープンにすることで心が軽くなりました。そして、多くの皆さんに支えられていることを実感することができました。
同様に、家族の病気を抱えている方、自身が闘病している方もたくさんいらっしゃると思います。
今は、家人と私の発信が、声を発することができない方たちのお力になれれば、と心から願っています。