テイ子おばちゃん、97年の美しい人生

  1. Family



人に感謝して生きる、ということを、これほどあたりまえに日々過ごしていた人を、私は知らない。

「私、幸せだよ。人に恵まれて」

会うたびに、そう口にしていた。

悲しい知らせは、いつも電話でやってくる。

9月29日の夕方、電話が鳴った。テイ子おばちゃんの息子さんからだった。

その日の深夜、2時12分、テイ子おばちゃんは逝った。
一週間前に部屋で転んで踵を骨折し、手術をしたあと、急変したと言う。
もともと心臓が悪く、通院もしていた。

私が最後に会ったのは、怪我をする数日前、9月12日のこと。
庭の花を摘んで瓶に差して持って行った。
紫と白の花、そしてピンクのバラ。

イッタラの黄色いカップとポットに紅茶、庭のブドウを少し。
それを一緒に楽しんだ。
黄色が好き、とテイ子おばちゃんは言っていた。

テイ子おばちゃんは、行くたびに忘れられない一言をくれた。

この日は「友人がいない人生なんて、もったいないよね」と。
たくさんの友人たちが東川に来てくれることを話すと、そう言って喜んでくれた。

私がものごごろついた時から、祖母も母も「テイちゃん」と呼んでいたから、ずっとそれが本名だと思っていたけれど、戸籍上の名前は「捨子(すてこ)」だった。

おばちゃんの前に、幼くして何人もの子供を亡くしていた母親が、年寄りの助言で、元気に育ちますようにと「捨子」とつけたと言う。
小さい時は自分の名前が嫌だった、とテイ子おばちゃん。

母親はテイ子おばちゃんを産んで、14日目に産後の日だちが悪くて亡くなった。
おばちゃんは、果物店を経営していた優しい父親と18歳離れた姉に育てられた。
姉は一生結婚せず、そのことを「私のために犠牲になった」とおばちゃんは繰り返し言っていた。

父親は花が好きで、果物を仕入れに市場に行くと、いつもたくさん花も買ってくる。
店の奥には居間があり、近所の人たちがお茶飲みがてら店に来ると、誰でも居間に迎え入れ、欲しいといえば気前よく花を持たせた。
父親は決して饒舌ではなかったけれど愛想がよくて、居心地の良い「成沢果物店」はいつも人気だった。

テイ子おばちゃんが学校を出て勤めたのは、タクシー会社の事務員。
そこで、おじちゃんと出会った。

男前で(私も良く覚えている)はっきりとした性格で、仕事ができ、マージャンは好きだけれどお酒は一滴も飲めないおじちゃんとの結婚を、「タクシーの運転手に娘はやれない」と、父親に大反対されたと言う。

きっとどんな人でも、父親は反対したのでは、とおばちゃん。
それくらい、父親が溺愛した娘だった。

おじちゃんの実家の後押しもあって、2人は駆け落ち同然に一緒になった。
おばちゃんは20代になったばかり。
父親と和解したのは、息子が生まれてからだったと言う。

1LDKの小さな団地住まいから、何度か引越し、旭川の郊外に家を建て、2人で野菜や花も作っていた。
おじちゃんは、家を建てる時、念願のマージャン部屋(玄関から直接上がれる場所に)を作り、週末には仲間とマージャン三昧。
おばちゃんはせっせと美味しいものを作って部屋に運んだ。

おじちゃんが70代で亡くなってから、おばちゃんは高齢者マンションに移り、たくさんの友達と行き来していたが、90歳になる頃、介護施設に入った。

高齢者マンションも施設も、実家だった果物屋も、檀家のお寺も、旭川の中心部で、歩いて10分くらいしか離れていない。
郊外の家を除けば、テイ子おばちゃんは生まれも育ちも、最後のお寺まで「シティガール」だった。

テイ子おばちゃんは、私の旭川の祖母の弟のお嫁さんに当たる。
だから、私と血のつながりはないけれど、私を赤ちゃんの時から知っていたし、祖母がいちばん親しくしていた親戚だった。

100歳まで生きた祖母が旭川の施設に入り、母が札幌から毎月、施設に通っていた頃、母はいつも施設の帰りにテイ子おばちゃんの家に寄って、おしゃべりするのを楽しみにしていた。
テイ子おばちゃんも一緒に、祖母のところに行くこともあった。
祖父が入院していた時には、お惣菜を作って運んでくれたこともある。
誰に対しても親切で、手間を惜しまない人だった。

5年前、至誠が亡くなって東川に住み始めてから少し経った頃、何年振りかでテイ子おばちゃんを尋ねた。
住んでいると思っていた高齢者マンションにはすでにいなくて、施設に入っていた。

それから月に一度は顔を見に行くようになった。
コロナの最中は、面会ができないこともあったけれど。

何度か、一緒に外出したこともある。
東川の家にも2度、連れてきた。
満開の桜を見せたくて、車で一緒に来たのは2023年の5月のこと。

穏やかな春の日で、雪の旭岳もきれいに見えていた。
テイ子おばちゃんの柔らかな笑顔を今も思い出す。

テイ子おばちゃんに会うことは、私にとって、命の理(ことわり)を知ることだった。
すでに、旭川の祖母や母のことを話し合える人はテイ子おばちゃんしかいなかった。
至誠が逝ってしまって、空っぽだった私だったが、それでも生きていくことは大切なことなのだと、テイ子おばちゃんに会うたびに思った。
いくつになっても、どんな状況でも、生きていかなくてはいけないのだと。

納骨堂にお参りに行った帰り、施設によってスタッフの方に挨拶した。
「いつも周りの方に感謝して、スタッフにも慕われていました」とお聞きした。

諦めずに、感謝して生きることを、私に教えてくれたテイ子おばちゃん。

ありがとう。

いつまでも、いつまでも、忘れないよ。