9月1日、父の野辺の送りをすませました。
8月30日の夕方、父は苦しむことなく、静かに逝きました。延命治療をせず、最後は点滴も外し、酸素吸入だけでした。弟と私がふたりともベッドの傍にいるときでした。
父の涙は一度も見たことがありません。
姿勢がよく、ゆったりとした足取りで、後ろ姿が美しかった。常に節度のあるおしゃれをし、強く、頼りになる、そして尊敬できる存在でした。
公務員として社会保険に関わる仕事していた父は、私が子供の頃は仕事一筋。どちらかというと厳格な印象でした。私は母を通して父と接することが多く、少し距離がありました。
その関係が変わったのは、二人で母の介護をするようになってからです。そして、母が亡くなってからは、ますます父と近くなっていきました。
父と愛でた中島公園の桜。
父と行ったモエレ沼公園のピクニック。
父と感じた平岡樹芸センターの燃えるような紅葉。
父と食べたトラットリア・ノブのイタリアン。
父と笑った円山動物園のシロクマ館。
父と語り合ったモリヒコでのコーヒータイム。
父と眺めた展望レストランからの札幌。
父と上った藻岩山のレストラン。
父と訪れた北海道近代美術館のゴッホ展。
母亡き後の2年間、たくさんの時間を父と重ねてきました。その度に、父の函館での子供時代の話を聞いたり、父の価値観に触れたりしました。
父の病状が進み、外出が難しくなってくると、父に食べたいものを聞き、私が家でご飯を作って一緒に食べました。
鰻丼、茹でた毛ガニ、ちらし寿司、キンキや秋刀魚の塩焼き、カボチャの煮物、フレンチトースト、湯豆腐、鱈ちり、カレイの煮付け、、、。
季節のものは、父にとってこれが最後になるのかもしれないと、心のどこかで思いながら。
入院してからは、爪を切り、父の手をアロマオイルでマッサージしました。花を飾り、アロマをたき、音楽をかけ、病室でコーヒーをドリップしました。
仕事が忙しかった頃、私の帰省は年に1度か2度。両親は遠くにいて、元気にしていてくれる存在でした。
父をこれほど愛しく思うようになるとは、思ってもみませんでした。
母が癌を患ってからは、2週間に一度、札幌に帰省していました。
父が一人になってからは月に一度。それが毎週になったのは、何度か糖尿病の低血糖で倒れ、一人暮らしが難しくなった3月からのことです。ヘルパーさんとの二人三脚で、なんとか週のほとんどを埋めるようにしていました。
そして4月に入院。
父はよくわかっていたのだと思います。
低血糖による救急搬送、呼吸器科内科入院など、その度に父は延命治療はしたくない、葬儀は直葬で、と伝えてくれていました。
私は父の意思に沿いたいと思い、弟もそれに同意してくれました。
定山渓病院の病室に泊まり込んだ10日あまりの時間は、私にとってかけがえのないものでした。
父の意識ははっきりしており、何度もありがとうと言ってくれました。
最後の2日間は、苦しみを取るためのモルヒネを打った後で、言葉を交わすことはできませんでしたが、命は確実に弟と私のそばにありました。
私は最後まで父に語りかけ、その手を握り続けました。
看取りとは、離れていた家族が再び家族に戻る時間なのかもしれません。
父が亡くなった翌日、私はモエレ沼公園へ行きました。
変わりやすい天気のせいか、人が少なく、プレイマウンテンに上ると、私ひとりでした。
両手を広げて空に向かって叫びました。
「パパの娘でよかった。パパ、ありがとう!」
その時、父が母と共に、空に上っていったと感じました。
父が身をもって示してくれた人としての尊厳。看取りを通して教えてくれた、家族の意味。
今、私の気持ちはとても安らかです。
父、下田淑夫に頂いた皆様のご厚情に深く深く御礼申し上げます。
ありがとうございました。
下田結花