今朝の東川はしんしんと細かい雪が降っています。あらわになった地面もまたうっすらと白く雪化粧しました。
今日、26日は至誠の月命日です。2021年10月26日から28回目の月命日を迎えました。
友人からもらった箱入りの蜜蝋のキャンドルは、月命日だけ灯すことにしていましたが、最後の1本になりました。2年以上の時間が経ったけれど、至誠と向き合うとやっぱり涙が溢れてきます。
今日は至誠の動画を見ました。ほとんどが食事の時の動画です。一時退院した自宅での朝食のとき、FaceTimeを通しての病院での食事。どんな時も至誠は淡々として、できるだけ食事を美味しく食べようとしていました。
今、思うと、病院の食事はとても殺風景だったのだろうに、粗挽き胡椒をかけたり、自分なりに工夫したりして。文句を言ったり、食べ残したりということはありませんでした。
食事の動画の他にも、FaceTimeを通して話をしているときの動画が残っています。たいていは食事の後、至誠が何か面白い話をしだして、急いで録画したものです。ほんの数分の短いものばかりですが、今でもそれを見ていると私は泣きながら笑ってしまいます。
大ボケのアシスタント・ディレクターの失敗話、マジックの鳩出しのマネ、、、。あの絶妙の間や、声の艶、至誠が楽しそうに話す様子は、今でも目の前で話してくれているかのようです。
至誠、いつになっても私を笑わせてくれるんだね。
記憶がある限り、人は死なない。肉体が滅びても、心はずっと生き続けるのだと思います。私はいつでも至誠と話ができるし、迷っている時や悩んでいるときは相談することができる。その答えがしっかり聞こえてくるから。
「悲しみの秘義」という本の中で、作者の若松英輔さんはこう書いています。
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逝った大切な人を思う時、人は悲しみを感じる。だが、それはしばしば単なる悲嘆では終わらない。悲しみは、別離に伴う現象ではなく、亡き者の訪れを告げる出来事だと感じることはないだろうか。
愛しきものがそばにいる。どうしてそれを消し去る必要があるだろう。どうして乗り越える必要などあるだろう。(中略)出会った意味を本当に味わうのは、その人とまみえることができなくなってからなのかもしれない。
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今、この言葉が深く心に染みてきます。悲しみを感じる時、それは至誠が私のそばにいる時なのだと。
今も雪は降り続いています。
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